行きたくない朝ほど、『休んでいい』の一言が遠くにある。
休む理由として説明できるものがない
休む連絡をするとき、何と書けばいいのか考える。「体調不良」と書けば済む話なのかもしれないけど、本当は体調が悪いわけではないので、書きにくい。嘘をつきたいわけでもない。
理由が小さいほど、言葉にするのは難しい。大きな問題ならまだ伝えやすい。でも行きたくない朝の理由は、たいてい小さなものの積み重ねで、いざ説明しようとすると消えてしまう。
説明できないから休めない。休めないから、結局、出かける支度をする。
休む連絡そのものが重い
仮に休むと決めても、その先には連絡がある。支援員さんがどう受け取るのか。返信の短さまで想像してしまう。翌日の空気が少し変わらないかとも考える。
休んだ日の扱いで、事業所との相性が見えるにも書いた通り、休んだあとの戻りやすさは場所によってちがう。戻りにくさを感じている場所ほど、休む連絡そのものが重くなる。
そうやって考えているうちに、「連絡しないで行ってしまう方が楽だ」という、どこかおかしな計算になる。楽なのは連絡を省くことであって、通所そのものではないのに。
行けてしまう自分が、さらに休みづらさを作る
不思議なことに、行けてしまう日もある。重い朝を押して家を出て、着いてしまえば作業は進む。「来られた」ことだけが、その日の成果みたいに置かれる。
通所できている人は、元気な人ではないにも書いた通り、通えていることと元気なことは別だ。来れている事実が「大丈夫」の証明になっていくと、行きたくない朝の存在がどんどん見えなくなっていく。
来れているうちは言い出しづらい、という構造は、ここでも静かに繰り返される。
崩れる前に、小さく調整する視点もある
行きたくない朝が続くとき、全部をやめる必要はないのかもしれない。日数を減らす。午後だけにする。週の一部を在宅にする。中間地点の考え方は、在宅と通所のあいだに、中間地点はないのかに書いた。
もっと深いところにある「辞めたい」については、作業所を辞めたいのに、辞めたいと言えないに分けて書きました。行きたくないのと辞めたいのは、別の重さです。
もっとも、調整をお願いすること自体が重い日もある。「休みます」より「通所の形を変えたいです」の方が、ずっと長い文章になってしまう。
通える日数そのものを巡る自己評価の話は、週何日通えれば、ちゃんとしていることになるのかに分けて書きました。
それでも、行きたくない朝が何度も続くなら、それは私が弱くなったせいではなくて、今の形が合わなくなってきている合図なのかもしれない。
同じ朝を過ごしている人へ
行きたくない朝を過ごして、それでも出かけた人もいる。出られなかった人もいる。どちらでもいいと思う。どちらも、責める材料にはならない。
重い朝を押して通ったことも、出られなかったことも、記録しておいていい。怠けの履歴ではなく、自分の体調の地図の一部だと思う。
行きたくない朝は、また来るかもしれない。そのとき「休んでいい」と言ってくれる人がそばにいるといい。いないなら、せめてこのページが、その一言の代わりになればいい。
「出勤できること」と「余力があること」の違いを、制度や研究の言葉で整理した読み物は、就労アトラスの通所できている人は元気なのか?出勤できることと余力の違いにあります。