通所日数は点数ではないのに、頭の中ではいつも集計されている。
「ちゃんとしている」の基準線は、誰が引いたのか
週5通っていても、フルタイムで働く人と比べれば足りない気がするし、週2だと支援を受けている資格がない気がする。いくら通っても、線を越えた気持ちにはなりにくい。
引いたのはたぶん私自身なのだと思う。けれど、自分で引いた線ほど消しにくいものはない。
家族の一言や、支援員さんの無邪気な「よく来てますね」。そういう言葉が燃料になって、線は少しずつ描き直されてきた気がする。
欠けた日の後ろめたさ
悲しいことに、休んだ日に限って体調が良いことがある。そういう日ほど、「動けたのに休んだ」という事実だけが残る。
行かなかった日を無駄と呼びたくなる衝動がある。でも本当に無駄だったのかは、当日の私にしか分からない。回復も、たぶん作業のうちだ。
知識としては分かっているのに、採点の手は止まらない。
多い日は誠実で、少ない日は逃げなのか
日数が多いほど偉くて、少ないほどサボり。そんな単純な式を、私はまだ使ってしまう。体調の波を無視した計算式だ。
調子の良い週と崩れやすい週で、必要な日数が違うのは当然なのに、頭の中ではいつも「平均値の私」を採点している。平均より下の週には罪悪感が来るし、上の週には「これが続けば」という別の不安が来る。
どちらに転んでも点数にならない。それでも集計をやめられない。
日数を減らす相談との距離
通所日数を見直すことは、堕落でも退却でもなくて、調整と呼んでいい話だと思う。在宅と通所の中間を探す視点は、在宅と通所のあいだに、中間地点はないのかに書いた。「週5かゼロか」の外側にも、形はある。
ただ、「休みます」より「通所日数を見直したいです」の方がずっと長い文章になる。作業所に行きたくない朝は、休めない朝でもあるに書いた通り、口に出すまでの工程が重いのだ。
もうひとつ厄介なのは、減らしたあとの自己評価が下がることだ。数字を下げることが、ちゃんとしていない証拠に見える日がある。だからこそ、この採点の話は、相談の話より先にあるのかもしれない。
採点を手放す練習
完全に手放せるとは言えない。でも、記録の見方だけは変えられると思う。点数ではなく地図。どの曜日に崩れやすいか、どんな週のあとに反動が来るか。それは採点ではなく、次の自分への引き継ぎメモになる。
「続いていること自体に意味がある」という言葉は、真実だけれど、押しつけがましくなりやすい。意味があるかどうかは、通っている本人が決めていい。
少なくとも、集計表の合格点の欄は、白紙のままでいい。線を引かないうちなら、何日の自分も、欠けた自分も、同じ紙の上に置ける。
同じ集計をしている人へ
通所日数を数えてしまう癖が消えなくてもいいと思う。数え続けてきた分だけ、自分の体調の波に詳しくなっているはずだ。
ただ、基準線を引いたのが他人ではなく自分だったことだけは、思い出しておいてほしい。引ける人は、引かないことも選べるはずだから。
今週の自分が何日だったかは、大事かもしれない。それが何点かどうかは、たぶん最初から問題じゃなかった。
「出勤できること」と「元気なこと」を分けて考えようという視点は、就労アトラスの通所できている人は元気なのか?出勤できることと余力の違いにもあります。日数の採点を手放すための、外側の言葉です。
連休や長い休みのあとにこの採点が特に厳しくなる人の話は、連休明けの通所が、一番重いにもあります。
眠気が来る日の話は、作業所で眠気が来る。薬のせいかもしれないし、違うのかもしれないに分けて書きました。