負けかどうかを決める審判はどこにもいないのに、胸の中では勝ち負けの計算だけが回っている。
何と比べているのか
負けだと感じるとき、たいてい私は何かと比べている。学生時代を同時に終えた人が正社員として働いている話を聞いたとき。転職の報告を見たとき。求人票を開いて、「あの人なら行ける場所」を想像したとき。
比べる相手は悪くない。ちゃんと生きている人たちばかりだ。それでも比べた瞬間、私の一日は急に小さくなる。梱包して、発送して、帰る。そんな一日が勝ち負けの計算に乗せられる。
計算式を作っているのは、たぶん私自身なのだけれど。
恥ずかしさの正体
作業所に通っていると言うと、相手の目が少しちがうものになる気がする。嫌悪ではないし、同情でもない。もっと柔らかい、「ああ、そういう場所なんだ」という理解の色だ。
その色が一番苦手だ。理解されてはいるのだけれど、どこかで線が引かれた気がする。「大変だね」「無理しないでね」。優しい言葉ほど、私と相手の間の段差をはっきりさせる。
だから私は、言わなくて済むなら言わない選択をしてしまう。
特に家族への説明の難しさについては、家族には通っていると分かっていて、何も伝わっていない気がするに分けて書きました。
「負け」という言葉が運んでくるもの
負けという言葉の裏には、一本の順路図がある気がする。学校を出て、就職して、正社員になって、そこがゴール。その道から外れると後ろにいる、みたいな数え方だ。
制度の話にも似た流れがある。一般就労への移行が「進級」のように語られること。障害者雇用率が上がっても、働く怖さが消えるわけではないにも書いたけど、あのニュースですら、どこかで「次へ行けた人が上」という空気を運んでくる。
順路図そのものは悪くない。ただ、今いる場所がいつまでも途中駅扱いされ続けると、通う意味そのものが薄くなってしまう。
頑張って通うほど、答えが出ない
変な話、頑張れば頑張るほど、このモヤモヤは増える。頑張って通う人ほど、便利な現場要員になる感じがするに書いたように、真面目に通うほど現場には頼られるし、通所している人は、事業所の帳尻合わせなのかに書いたような、構造の一部として使われている感覚も育つ。
それなのに、賃金や工賃の数字が努力に比例してくれるわけではない。頑張りの大きさと評価の大きさが一致しない場所では、「負けている」感覚が消えにくいのだと思う。
数字の話をすると途端に卑しくなるから、ふだんは誰にも言わない。けれど、工賃明細を見て少し黙る日は、確かに存在する。
その黙る日についてだけを掘り下げたのが、B型の工賃明細を、開く前に深呼吸する日があるです。
審判はどこにいるのか
よく考えれば、勝ち負けを決める審判はどこにもいない。就労移行の先生でも、親でも、元同期でもない。審判不在のまま、私の中でだけ試合が続いている。
生活が続いていること、家を出られたこと、月が回っていること。そういう小さな継続は、順路図の上では点数にならない。でも、点数にならないだけで、ゼロでもないはずだ。
「通所したら負けですか」。この問いに今のところ答えはない。ただ、問いを持ったまま通う日が続いている、という事実だけは、ここに置いておける。
同じように感じた人へ
もし、通っている自分が負けに見えたことがあるなら、その感覚をすぐ正しくしようとしなくていい。比べてしまった自分も、ぼかして答えた自分も、悪い人ではない。
勝ち負けで測れない部分を、あなたはたしかに持って生きている。それを思い出せるときが、いつか来るかもしれないし、こないかもしれない。
少なくともこのサイトでは、この問いを笑わないで置いておく。答えが出るまで、問いごとここに置いていいことにする。