自分は支援を受けに来ているのか、それとも事業所を回すための人数として来ているのか、分からなくなる日がある。
在宅利用を否定したいわけではない
在宅利用があること自体を否定したいわけではない。通所が難しい人もいるし、自宅の方が落ち着いて作業できる人もいると思う。
外に出ること、人の中にいること、決まった時間に動くことが、見た目以上に負担になる人もいる。だから、在宅という選択肢があることは必要だと思っている。
でも、在宅利用を大事にすることと、通所している人の負担を見えないものにすることは、同じではないはずだと思う。
でも、全員が在宅だったらどうなるのかと思うことがある
たまに、全員が在宅だったら事業所はどうなるのだろう、と思うことがある。これは制度の話をしたいわけではなく、通っている側の素朴な疑問に近い。
毎日通所している人がいるから、現場の作業や支援の形が保たれているように見える。誰かがその場にいるから、急な確認も、梱包も、発送も、ちょっとした対応も回っていく。
それなら、そこにいる人たちの負担は、もう少しはっきり見られてもいいのではないかと思う。
現場にいる人に作業が寄っていく
通所していると、梱包、発送、確認、急な作業、現場にいないとできない作業が回ってくることがある。その場にいるから頼まれる作業がある。
一つひとつは断るほどではない。だから引き受ける。でも、断るほどではない作業ほど、積み重なると疲れる。
その場にいる人が引き受けるしかない、という空気の中で、通所していることが少しずつ不利になっていく。
通所者が帳尻合わせになっているように感じる
在宅側に回せない作業が、通所者に寄っていく。現場にいる人がやるしかない。そういう日が続くと、自分たちは在宅の人を支えるために通っているのか、という気持ちになることがある。
もちろん、在宅利用者を責めたいわけではない。誰か個人が悪いと言いたいわけでもない。
でも、通所している人が、事業所全体の帳尻合わせになっているように感じる日がある。『通っている人がいるから何とかなる』で片づけられるなら、通所している側はどこで報われるのだろう。
在宅の人を責めたいわけではない
何度も言うけれど、在宅の人を責めたいわけではない。在宅が必要な理由は人によって違うし、外から見ただけでは分からないしんどさもある。
それでも、通所している人の我慢で全体の形が保たれているように見えると、正直しんどい。そう感じてしまう自分を、性格が悪いと思うこともある。
でも、感じてしまったものを全部なかったことにはできない。嫌な感情を抱えたまま、次の日もまた同じ場所へ向かうことがある。
それでも、通所している人の負担も見てほしい
通所している人は、ただ来られる人ではない。通うために移動して、人の中にいて、予定に合わせて、自分の体調をなんとか整えている。
そのうえで現場作業や急な作業が増えると、通所していることが損をしているように見える設計になってしまう。長く続けば、モチベーションは削られる。
帰り道に『今日も自分は何のために通ったんだろう』と思うことがある。支援を受けに来たはずなのに、事業所を回すための一部になって帰ってきたような気がする日がある。
同じように感じた人へ
もし、通所している自分が帳尻合わせにされているように感じたことがあるなら、その感覚をすぐに消さなくていいと思う。
在宅の人を責めたいわけではない。でも、通所している側の負担も、ちゃんと見てほしい。そう思うことは、誰かを攻撃することとは違うはずだ。
自分の通所が、事業所全体の形を保つためだけではなく、自分の支援として意味を持っていてほしい。最後に残るのは、たぶんその願いなのだと思う。
この話の続き
通所している人に作業や空気が寄っていく感覚は、「通所の疲れは作業量ではなく、人の密度から来る」でもう少し身体感覚に近づけて書きました。
通所の意味を失わず、在宅とのあいだを探す話は、「在宅と通所のあいだに、中間地点はないのか」に続きます。在宅の居心地の良さが通所への動機を弱める側面については、「在宅が居心地よすぎると、通所したくなくなるのでは」にも書きました。
「その場にいる人が頼まれる」という構造を制度の視点から読みたいときは、就労アトラスのA型作業所の作業配分にモヤモヤしたら?に整理があります。