在宅を責めたいわけではない。でも、通所している側だけが我慢しているように見える日がある。
でも、在宅の方が居心地よく見える瞬間がある
在宅ではPC作業など、比較的やりやすく見える作業が回っているように見えることがある。一方で、通所すると移動があり、人の気配があり、現場作業や雑務に回ることがある。
もちろん、外から見えているものだけで全部を決めつけることはできない。在宅にも在宅のしんどさがあるはずだし、家で作業することが楽だと簡単には言えない。
それでも、通所した日は、移動と人の気配だけでかなり体力を使う。そのうえで希望していた作業から遠ざかると、何のために通っているのか分からなくなる。
通所すると負担だけ増えるように見えると、通所する理由が弱くなる
通所を増やしたら、より次の段階に進める。通所したら、職員さんと相談しながら作業の幅を広げられる。そういう見通しがあるなら、しんどくても通う理由を持ちやすいと思う。
でも、通所した方が次に進めるのではなく、通所した方が雑用に近づくように見えるなら、誰だって在宅に残りたくなると思う。頑張って通う人ほど、便利な現場要員になる感じがするに書いた感覚も、この構造の一部だと思います。
在宅だけが静かで、PC作業に近くて、通所だけが移動や現場作業や急な頼まれごとに近い場所に見えてしまうと、通所する理由はどんどん薄くなる。
「それなら在宅の方がいい」と思ってしまう自分がいる
通所している私から見ても、『それなら在宅の方がいいのでは』と感じる瞬間がある。そう思う自分に、少し嫌な感じもある。
在宅の人を責めたいわけではない。配慮が必要な人に、無理をして通えと言いたいわけでもない。なのに、帰り道に『今日も通所した方が損だったのかな』と思ってしまう瞬間がある。
そんなふうに考える自分が嫌になるけれど、感じてしまったものまで消せない。正しいかどうかとは別に、心の中には『なんでこっちばかり』という黒い感情が残る日がある。
在宅を罰にしたいわけではない
在宅を厳しくしろとか、在宅の人に過酷な仕事をさせろとか、そういう話をしたいわけではない。在宅が必要な人にとって、安心して作業できる環境は本当に大事だと思う。
ただ、在宅だけが居心地よく、通所だけが負担の多い場所に見えると、在宅の側から見ても、通所している側から見ても、通所を増やす動機が弱くなる。
通所が罰みたいに見える設計では、誰も前向きに通いたくならない。通所した方が負けに見える瞬間があるなら、その空気は少し危ういと思う。
「通っていることが負けに見える」感覚そのものは、通っていることが、負けのように見える日があるに分けて書きました。在宅と通所の比較の中で、自分の毎日の価値が揺れる話です。
必要なのは、通所したら次に進めるという設計
通所したら、スキルにつながる作業に触れられる。職員さんと相談しながら、次の段階に進める。現場に来ることが、ただ人手として使われることではなく、自分のための時間になる。
そういう設計がないと、通所の意味が見えにくくなる。移動して、人の中にいて、疲れて、それでも行った先で希望作業から遠ざかるなら、心の中で何かが冷めていく。
PC作業をしたいという気持ちも、ただ楽な作業を選びたいだけではない。少しでも今後につながるものに触れていたい、という気持ちがある。
在宅配慮と通所の納得感は、両方必要だと思う
在宅配慮は必要だと思う。でも、通所している人の納得感も同じくらい大事だと思う。どちらか片方だけを見ていると、全体のバランスが崩れていく。
配慮の裏側で、配慮されていない側の負担が増えているように見えると、通所している人の気持ちは少しずつ削られる。
在宅を守ることと、通所する意味を守ることは、本当は対立しなくていいはずだと思う。けれど現場では、その両方がうまく見えない日がある。
在宅と通所の組み合わせそのものを制度の視点から整理した読み物は、就労アトラスのハイブリッド勤務は中間解になるかにもあります。「どちらか」ではない形を考えるときの、外側の材料です。
同じように感じた人へ
もし、在宅の人を責めたいわけではないのに、嫌な感情が残ったことがあるなら、その感覚をすぐに悪者にしなくていいと思う。
それは誰かを攻撃したい気持ちではなく、自分の通所の意味が見えなくなっているサインかもしれない。
在宅を責めたいわけではない。ただ、通所する意味が見える場所であってほしい。通った分だけ、自分の次につながっていると思える場所であってほしい。
この話の続き
在宅の居心地だけを見ると、通所する意味は見えにくくなります。その反対側にある孤立や相談しづらさは、「在宅は楽なのか、それとも孤立しやすいのか」に分けて書きました。
通所の意味を残しながら負担を下げる考え方は、「在宅と通所のあいだに、中間地点はないのか」に続きます。