「お仕事何してるの?」と聞かれたとき、私の中では返答が二択に分裂する。どちらも半分だけ正しい。
雇用契約があるかどうかと、仕事らしさは別の問題
制度上の線ははっきりしている。A型には雇用契約があり賃金が生じる。B型には契約がなく工賃が生じる。この違い自体は、覚悟すれば受け止められる。
厄介なのは、その制度上の線が、いつの間にか「仕事らしい仕事かどうか」の線として心の中に引き直されるところだ。契約がない=仕事じゃない、という短絡な式を、私はまだ完全には捨てられていない。
B型の工賃明細を、開く前に深呼吸する日があるにも書いたけど、数字の仕組みと自分の価値のあいだに線を引く練習は、言葉の問題でもあるのだと思う。
「ちゃんとした仕事」という幻
頭の中に「ちゃんとした仕事」という基準像が住んでいる。正社員で、給料が安定していて、人に説明して少し誇れるもの。
その基準像と今の自分を重ねるたび、今の毎日は「まだ」側に置かれる。まだ仕事になっていない、まだこれから何かになるところだ、と。
でもよく考えると、基準像の持ち主は私自身で、基準像を作った材料はテレビとSNSと親戚の会話だったりする。検証されていない規格で、自分の毎日を測り続けている。
働いている実感は、どこにあるのか
朝、時間に合わせて家を出る。作業を進める。休んだ日の扱いを気にする。体調と相談しながら翌日を計画する。
休んだ日の扱いを気にする部分は、休んだ日の扱いで、事業所との相性が見えるに書いた通り、働く実感とセットで揺れる部分だと思う。戻りやすさがあるからこそ、明日も続けられる。
それらを並べてみると、それはかなり「働く」ことに近い形をしている。報酬の大きさだけが、実感から取り残されている感じがする。
実感の不足を埋めるために数字を上げる道もあるけれど、すぐには無理だから、実感の側の言葉を整える道も並行して探したい。両方やめてしまわないことが大事だと思う。
呼び方を変えることと、現実をごまかすことは違う
「これも仕事ってことでいいんじゃない」と軽く片づけるのは、ごまかしになるかもしれない。単調さへの不満や、収入の少なさへの悔しさまで包んで消したら、本末転倒だ。
単調な作業の中で、成長している気がしない日があるに書いた通り、不満は不満として持ったままでいい。
それとは別のところで、「今日の一日を仕事と呼ぶか呼ばないか」を選ぶ権利だけは、本人にあっていい。呼ぶ日は誇りを持っていいし、呼ばない日は呼ばないでいい。
答えを保留したまま持っておく
この問いに結論を出す必要は、たぶん今はない。「仕事と呼んでいいのか」は、一度答えたら終わりの問題ではなくて、時期によって答えが変わるタイプの問題だと思う。
保留のまま持っておくこと。それを怠惰と呼ぶかどうかも、本人が決めていい。
呼び方の揺れが自己評価に繋がる日の感覚は、通っていることが、負けのように見える日があるにも置いてあります。言葉の問題は、そのまま気持ちの問題でもあるのだと思います。
ただ、次に誰かに「お仕事何してるの?」と聞かれたとき、返答が二択に分裂せず、一つの言葉で済む日が来たらいいな、とは思っている。
仕事の満足度と配慮の関係を研究の言葉で読みたいときは、就労アトラスの合理的配慮は仕事満足度をどう変えるのかに整理があります。「仕事」と呼べるかどうかの問いの外側に、満足度という別の測り方もある。