心配だと分かっているから、怒ることも、納得することもできない。
心配と反対の区別がつかなくなる
家族の言葉は、心配という形をしている。「本当にそこでいいの?」「もっと良いところがあるんじゃない?」。悪意は一ミリもない。
でも、受け取る側にとっては、どれも「今の場所は間違っている」というメッセージに変換される。変換しているのは私なのだと分かっていても、変換を止めることができない。
心配だと分かっているから、怒ることも、納得することもできない。この二つのあいだにいる時間が、一番長い。
「今の場所は間違っている」という感覚が自分の中にも住み着いている話は、通っていることが、負けのように見える日があるに書きました。家族の言葉が、内側の声と一致して聞こえるからこそ、外せないのだと思う。
説得材料を持っていない私
反対に対して、こちらから説明できる材料が少ない。作業内容、通所日数、将来の見通し。家族には通っていると分かっていて、何も伝わっていない気がするで書いた通り、情報をぼかし続けた結果、いざというときに語るものがない。
統計や制度の数字を出しても、家の中の空気は変わらない。変わらないどころか、数字を出すことでさらに「心配な子」になっていく感じがする。
説明しづらさの積み重ねが、ここで利いてくる。これは自業自得と言われたら、半分そうかもしれない。
通所が遠くなる心理
反対されている間、通所の朝が少し遠くなる。家の中での視線を避けるように、出かける時間をずらしたり、帰宅の挨拶を短くしたり。
朝の重さそのものは、作業所に行きたくない朝は、休めない朝でもあるに書いた通り。ただ今回は、重さの原因が場所でも体調でもなくて、家の中の空気にある。
場所そのものは変わっていないのに、家から作業所までの距離が、心理的に伸びる。伸びた距離は、体調にも出る。
一番応援してほしい人たちに応援してもらえない感覚は、通所の疲れとは別のところで、じわじわ削ってくる。
第三者という選択肢
家の中だけで話し合いを続けるより、第三者を挟む方法がある。相談支援専門員なら、サービス全体を見た上で、家族の心配にも本人の希望にも両方向き合える立場にいる。
契約更新の時期になると、少し息を止めるにも書いた通り、聞くこと自体の重さはある。でも、家の中で繰り返される議論を外に出すことは、悪いことではない。
家族を説得するための第三者ではなく、家族と私のあいだに翻訳者を立てるための第三者。そう捉えると、少し頼みやすくなる。
反対され続けても、決めるのは自分
最終的に決めるのは私だ。それは分かっている。分かっているのに、決められない時間が続く。決めた後の関係の壊れ方が怖いからだ。
でも、通うことを止めても家族との関係が完璧に保てるわけではない。我慢して通わなくなっても、別の摩擦は生まれる。どちらを選んでも完璧ではないなら、自分の生活が続く方を選ぶ権利がある。
反対は、愛情の別の形であることもある。それを受け止めながら、それでも自分の選択をする。その練習を、今日も少しだけしている。
同じ食卓で揺れている人へ
家族に反対されて通うのが遠くなった人がいるなら、その距離はあなたが作ったんじゃない。伝わらなかった言葉の数だけ、両側にある。
急がなくていい。説得できなくてもいい。ただ、自分が通う理由を、誰に向けるともなく書き留めておくこと。それはいつか、家族への言葉になるかもしれないし、ならないかもしれない。
どちらでもいい。書いた記録だけが、揺れる日々の中で動かない拠り所になる。