仲良くできている人が偉いわけでも、できていない私がダメなわけでもない。それでも毎朝、席を選ぶ時間だけは本気になる。
「話しかけなきゃ」と思うほど、話せなくなる
作業所では「コミュニケーションも大切です」という空気が、悪意なく流れている。それ自体は正しいのだと思う。でも、会話のキャッチボールが苦手な日ほど、その空気が義務として肩に乗る。
話しかけようと構えるほど、タイミングを逃す。逃すほど自分を責める。「今日も何も話せなかった」という小さな敗北の記録だけが積み上がる。
会話が得意な人は偉くて、苦手な人は怠けているのかと言われると、どちらでもないのに。ただ向いている距離が違うだけのことが多いのに。
輪に入れない日と、入らなくていい日の区別がつかない
休憩室で雑談の輪ができているとき、入るかどうか迷う。入らないで席を外す日、「今日は少し静かな場所で」と自分で選んだ気がする日。
翌日になって思い出すと、あれは避けられたのか、自分が避けたのか、分からなくなる。他人の内側は見えないから、埋め合わせはすべて自己評価で行われる。
そして自己評価というものは、たいてい一番厳しい判決を出してくる。
悪い人がいないからこそ、言えない
ここには嫌な人がいるわけではない。無視する人も、いじめる人もいない。みんなそれぞれに忙しくて、優しくて、距離を測っているだけだ。
相談するほどではないけど、ずっと残る作業所の違和感に書いたのと同じ構造で、悪者が不在の疲れは、不満として形にできない。誰にどう説明すればいいのか、「仲良くできないのがつらい」以外の言葉がない。
だから黙る。黙ったまま、席選びの計算だけが少しずつ精密になっていく。
密度の疲れと、関係の疲れは別物だと思う
通所の疲れは作業量ではなく、人の密度から来るに書いたのは、音や視線といった刺激としての疲れだった。
今回はもう少し別の話で、人の声が聞こえない場所にいても、関係の計算だけで削られることがある。誰かの機嫌を伺う。昨日の自分の発言を反芻する。挨拶の返事のトーンを調整する。
密度なら物理的な対策があるけれど、関係の疲れにはイヤーマフがない。だからこそ、距離感を自分で設計する視点が必要になるのだと思う。
距離感は設定であって、失敗ではない
全員と仲良くなる必要はないし、逆に引きこもるのが正解とも言わない。ただ、「毎回同じ席」「週に一度は誰かと一言交わす」「休憩は別の場所で取る」みたいに、距離をあらかじめ決めておくと、毎朝の計算が少し減る。
作業所に行きたくない朝は、休めない朝でもあるにも書いた通り、朝の重さの中身を分解してみると、実は関係の計算が相当の割合を占めていたりする。
在宅は楽なのか、それとも孤立しやすいのかに書いた孤立への怖さと、ここで言う距離感の設計は矛盾しない。ひとりになりすぎない仕組みを、自分の側にも作っておいていい。
同じ距離で悩んでいる人へ
仲良くできている人たちを見てしんどくなったら、彼らの距離感がたまたま合っているだけだと考えてみてほしい。優秀さの差でも、人格の差でもない。
あなたの距離感は、あなたの体調と歴史に合わせて作られてきた設定値だと思う。変えたければ変えられるし、変えなくても生きていける。
席を選ぶ数分の本気を、もう少し楽なものにできる日が来ますように、とだけ、ここに書いておく。
席や環境の調整を配慮として整える考え方は、就労アトラスの合理的配慮とは?障害者雇用で伝えること・伝えすぎないことにもあります。「席選びが本気になる」問題は、調整の対象になり得ます。